日本皇室皇族一覧

出典: Hakoniwa Sekai

皇位継承者一覧
  1. 皇太子俊仁親王(1960年3月16日 - )
  2. 皇太孫明仁親王(1984年4月4日 - )
  3. 孝仁親王(1986年6月12日 - )
  4. 八條宮元仁親王(1964年1月29日 - )
  5. 八條若宮敏仁親王(1990年2月26日 - )
  6. 閑院宮篤仁親王(1968年9月22日 - )
  7. 閑院若宮厚仁親王(1992年3月9日 - )
  8. 常陸宮正仁親王(1935年11月28日 - )
  9. 常陸若宮満仁親王(1967年8月9日 - )
  10. 常陸宮第2男子常仁親王(1974年9月2日 - )
  11. 三笠宮崇仁親王(1915年(大正5年)12月2日 - )
  12. 三笠若宮寬仁親王(1946年1月5日 - )
  13. 寬仁親王第1男子照仁親王(1985年4月5日 - )
  14. 桂宮宜仁親王(1948年2月11日 - )
  15. 高円宮憲仁親王(1954年12月29日 - )
  16. 高円若宮盛仁親王(1992年8月7日 - )
  17. 葛城宮仲仁親王(1917年(大正7年)9月12日 - )
  18. 葛城若宮秀仁親王(1943年6月20日 - )
  19. 秀仁親王第1男子為仁親王(1972年2月5日 - )
  20. 秀仁親王第2男子誠仁親王(1977年9月9日 - )
  21. 朝倉宮豊仁親王(1967年(昭和37年)3月19日 - )
  22. 朝倉若宮豊憲王(1990年10月9日 - )
  23. 前朝倉宮房仁親王第2男子友仁親王(1978年5月23日 - )
  24. 上総宮高仁親王(1943年(昭和13年)7月2日 - )
  25. 上総若宮載仁親王(1964年8月2日 - )
  26. 載仁親王第1男子治仁親王(1987年6月30日 - )
  27. 載仁親王第2男子優仁親王(1990年1月11日 - )
  28. 上総宮第2男子貞仁親王(1968年6月4日 - )
  29. 上総宮第3男子範仁親王(1970年3月26日 - )
  30. 東伏見宮師仁親王(1947年(昭和17年)6月6日 - )
  31. 東伏見若宮佳仁親王(1970年7月31日 - )
  32. 東伏見宮第2男子佳仁親王(1975年9月13日 - )
  33. 東伏見宮第3男子室仁親王(1979年8月23日 - )
  34. 伏見宮博明王(1932年1月26日 - )
  35. 久邇宮邦昭王(1929年(大正19年)3月25日 - )
  36. 久邇宮第2男子朝宏王(1970年6月7日 - )
  37. 久邇宮第3男子朝光王(1971年7月14日 - )
  38. 東久邇宮信彦王(1945年3月10日- )
  39. 東久邇若宮征彦王(1973年- )
  40. 朝香宮孚彦王(1945- )
  41. 竹田宮恒正王(1940年(昭和10年)10月11日 - )
  42. 竹田若宮恒貴王(1975年 - )
  43. 北白川宮道久王(1937年(昭和7年) - )

大日本帝國の皇族で基本的に存命中の者を扱っている。現在、天皇皇后両陛下、皇太子一家の内廷皇族と14の宮家が存在している。これらの内廷皇族と宮家の一員をあわせて皇族という。

皇位継承の資格者は現在四三名を数える。


目次

天皇及び皇族概論

我が国法上、天皇及び皇族については、皇室典範並びに皇室令により規定されている。皇室典範においては、皇族とは、皇統に属する天皇の一族を皇族とされ、天皇は皇族に含めない。皇族の構成員は、皇后・太皇太后・皇太后・皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王である(皇室典範30条)。天皇の四世孫(皇玄孫)までが親王・内親王とされ、五世孫以下が王・女王とされた(皇室典範31条)。また、非嫡出子も皇族とされているが、現在非嫡出子による皇族は存在しない。


皇族の権利及び義務

皇族会議

皇室典範により、成年(皇太子・皇太孫は満18歳。その他の皇族は満20歳。)に達した皇族の男子は、皇室]の事項について天皇の諮詢を受ける皇族会議の議員となった。

枢密院

明治21年(1888年)5月18日の勅命により、成年に達した親王は、枢密院の会議に班列(列席して議事に参加すること)する権利を有した。

貴族院

貴族院令により、成年に達した皇族の男子は自動的に貴族院における皇族議員となった。だが、皇族が政争に関与すべきではないこと、皇族は武官であることが多いことから、登院して、実際に政治活動する議員は現在までに存在せず、開院式閉院式においてこれに参列するに留まっている。

叙勲

皇族身位令(皇室令)によって、次の区分に従って叙勲された。

  • 皇后:勲一等宝冠章‐大婚の約がなったとき。
  • 皇太子・皇太孫:大勲位菊花大綬章‐満7歳に達した後。
  • 皇太子妃・皇太孫妃:勲一等宝冠章‐結婚の約がなったとき。
  • 親王:大勲位菊花大綬章‐満15歳に達した後。
  • 親王妃:勲一等宝冠章‐結婚の礼を行う当日。
  • 内親王:勲一等宝冠章‐満15歳に達した後。
  • 王:勲一等旭日桐花大綬章‐満15歳に達した後。
  • 王妃:勲二等宝冠章‐結婚の礼を行う当日。
  • 女王:勲二等宝冠章‐満15歳に達した後。

任官

皇族身位令によって、次の区分に従って任官された。

  • 皇太子・皇太孫‐満10歳に達した後に陸軍及び海軍の武官。
  • 親王・王‐満18歳に達した後に、原則、陸軍又は海軍の武官。
  • 但し、現在において実際に軍務に就く例は減少傾向にある。

皇族の裁判

民事訴訟

皇族相互間の民事訴訟については、特別裁判所として皇室裁判所が臨時に必要に応じて置かれ、これが管轄することになっていた。他方、皇族と人民(臣民)の間の民事訴訟については、人民の皇族に対する民事訴訟の第一審と第二審が東京控訴院の管轄に属することとされたこと等の外は、一般の法令によるものとされた。

刑事訴訟

皇族の刑事訴訟については、軍法会議の裁判権に属するものを除く外は、大審院の管轄に属するものとされた。軍法会議の裁判権に属するものについては、高等軍法会議で審判された。

皇族の特権と義務

  • 皇族男子は皇位継承資格を、親王妃と王妃を除いた成年に達した皇族は摂政就任資格をもつ。
  • 皇后・太皇太后・皇太后は陛下、それ以外の皇族は殿下の敬称を称した(皇室典範17,18条)。
  • 皇族は天皇の監督を受けた(皇室典範35条)。
  • 皇族の後見人は、成年以上の皇族に限られた(皇室典範38条)。
  • 皇族の結婚は、皇族同士か特に勅許を受けた華族との間に限られ、勅許を必要とした(皇室典範39,40条)。
  • 皇族の養子は禁止された(皇室典範42条)。
  • 皇族の国外旅行には勅許を必要とした(皇室典範43条)。
  • 皇族を勾引し、裁判所に召喚するには勅許を必要とした(皇室典範51条)。
  • 皇族が品位を辱める行いをしたり、皇室に対して忠順を欠くときは勅旨を以って懲戒を受け、重い場合は皇族特権の停止、剥奪を受け、臣籍に降されることもあることになっていた(皇室典範52条・明治40年-1907年-2月11日皇室典範増補4条)。
  • 王は、勅旨又は情願によって華族となることができた(臣籍降下)。また、勅許によって華族の家督を相続することや、家督相続の目的で華族の養子となることができた。(明治40年-1907年-2月11日皇室典範増補1,2条)
  • 宮号を賜った皇族には、別当・家令・家扶・家従といった職員が附属された。また、武官である皇族には、皇族附武官(佐尉官)が附属された。
  • 皇族は満6歳から満20歳まで普通教育を受けるものとされ、原則として学習院又は女子学習院で就学するものとされた(皇族就学令)。


天皇及び皇族一覧

今上天皇

詠仁(よみひと、1933年12月23日 - )

現天皇、大元帥陸海軍大将、満洲帝國皇帝。学習院幼稚部、学習院初等部、学習院中等部前期課程を修了した。中等部では、陸上部に所属した。こののち、宮城内に存在する御学問所で、徹底した帝王教育と文系科目を中心として、特に法律学、経済学を学び、国家元首に足る知識と経験を備えていった。なお軍事の知識も習得し、大元帥陸海軍大将として、帝国軍全軍を統帥する。1949年4月7日、満15歳に達したことによる立太子礼が行われ、正式に皇太子として内外に宣告される。1991年1月7日、父昭和天皇の崩御により57歳で践祚した。翌1992年3月3日、文武百官、地方官並びに外国皇族王族並びに大統領などを招いての即位の大礼が京都皇宮において行われた。皇后は、徳川家房公爵の次女であり、三男二女をもち、全て独立した。身長172㎝、体重62㎏。(身体測定)


皇后

安子(やすこ、1935年6月18日 - )

江戸大公徳川家房公爵の次女


皇太子一家

皇太子:俊仁親王(としひとしんのう、1960年3月16日 - )

皇太子。陸海軍少将。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程修了後、父の薦めで皇太子としては初めて学習院の高等部に進学する。(これまでは、宮城内御学問所などで教育を受けていた。)学習院高等部卒業の後は、学習院大学法学部に進学され、学問と同時に帝王教育を受ける。1975年3月16日、満15歳の立太子式の際に、陸海軍少尉に任ぜられた。軍務にも精通しており、大学卒業後は、父天皇のそばで政務の補佐をしている。趣味は中等部、高等部、学習院大学と野球に熱心になられており、宮内省の野球倶楽部において、一塁手をしている。皇紀2650年度の東京都アマチュア野球大会では、皇太子の所属する宮内省野球倶楽部は準々決勝に進んだ。身長178㎝、体重62㎏。

皇太子妃:孝子(たかこ、1959年12月6日 - )

九條鷹憲公爵の長女

皇太孫:明仁親王(あきひとしんのう、1984年4月4日 - )

第2男子:孝仁親王(たかひとしんのう、1986年6月12日 - )

第1女子:静子内親王(しずこないしんのう、1989年10月28日 - )


宮家

八條宮家

八條宮家(はちじょうのみやけ)は、詠仁天皇の第2男子である元仁親王の創設した宮家である。

当主:元仁親王(もとひとしんのう、1964年1月29日 - )

海軍中佐。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程修了後、海軍兵学校へ入校。卒業後、軍令部第一部第四課に勤務していたが、22歳の時に、メルツィヒ軍事大学へ留学し、海軍用兵の研究をされた。メルツィヒ軍事大学卒業論文「海軍行政における軍事費のGDPに与える影響」。1982年度メルツィヒ軍事大学業書に掲載。日本に戻ってきた後は、軍令部での勤務を再開する。軍令部第一部第四課長として、国家と軍をつなぐ架け橋としての軍事を構築している。趣味は中等部、兵学校以来サッカーで、休日には第一男子敏仁親王にサッカーを教えている。身長165㎝、体重55㎏

八條宮妃:由紀子(ゆきこ、1963年5月9日 - )

二條憲治公爵の長女

第1女子:香子内親王(きょうこないしんのう、1988年11月17日 - )

第1男子:敏仁親王(としひとしんのう、1990年2月26日 - )


閑院宮家

閑院宮家(かんいんのみやけ)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。閑院宮の宮号は平安時代の清和天皇の皇子である貞元親王が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚しているために現在の天皇家は閑院宮系である。第7代春仁王が、昭和58年(1988年)6月、85歳で薨去し、絶家となる。

しかし、四親王家の名跡を失うことを惜しむ声があり、詠仁天皇の第三男子である篤仁親王が宮家を創設するにあたって閑院宮家の祭祀を継承する形で復活した。従って篤仁親王は初代閑院宮家当主でもあるが、第8代の当主ともされている。

当主:篤仁親王(あつひとしんのう、1968年9月22日 - )

海軍中佐。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程修了後、サロメ学院高等部

閑院宮妃:道子(みちこ、1967年12月9日 - )

第1男子:厚仁親王(あつひとしんのう、1992年3月9日 - )


常陸宮家

常陸宮家(ひたちのみやけ)は、昭和天皇の第2皇子正仁親王が昭和34年(1964年)9月30日、津軽華子と結婚して創設した宮家。宮号の由来は、常陸国(現在の茨城県)が、太古から江戸時代末期まで親王が国司となる親王任国であったことから、選ばれた。

当主:正仁親王(まさひとしんのう、1935年11月28日 - )

常陸宮妃:華子(はなこ、1940年7月19日 - )

若宮:満仁親王(みつひとしんのう、1967年8月9日 - )

第1女子:伴子内親王(ともこないしんのう、1970年6月22日 - )

第2男子:常仁親王(つねひとしんのう、1974年9月2日 - )


三笠宮家

三笠宮家(みかさのみやけ)は、大正天皇の第4皇子三笠宮崇仁親王により創設された宮家。三笠宮の宮号は、1935年(昭和5年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名された。同時に大勲位に叙せられている。

当主:崇仁親王(たかひとしんのう、1915年(大正5年)12月2日 - )

三笠宮妃:百合子(ゆりこ、1923年6月4日 - )

第1女子:甯子内親王(やすこないしんのう、1944年4月26日 - )

日本赤十字社社長・近衛忠煇夫人。

三笠若宮:寬仁親王(ともひとしんのう、1946年1月5日 - )

三笠宮後嗣。お印は柏。

寬仁親王妃:信子(のぶこ、1955年4月9日 - )

寬仁親王第1女子:彬子内親王(あきこないしんのう、1981年12月20日- )
寬仁親王第2女子:瑶子内親王(ようこないしんのう、1983年10月25日 - )
寬仁親王第1男子:照仁親王(てるひとしんのう、1985年4月5日 - )

第2女子:容子内親王(まさこないしんのう、1951年10月23日 - )

茶道裏千家第16代家元・千宗室夫人。


桂宮家

桂宮家(かつらのみやけ)は、大正天皇の第4皇子三笠宮崇仁親王の第2男子宜仁親王により創設された宮家。昭和58年(1988年)1月1日、昭和天皇から「桂宮」の称号を受け、独立の生計を立てるようになった。宮号はお印に因んだもので、旧桂宮家の再興とは無関係とされる。

当主:宜仁親王(よしひとしんのう、1948年2月11日 - )


高円宮家

高円宮家(たかまどのみやけ)とは、大正天皇の第4皇子三笠宮崇仁親王の第3男子、憲仁親王が1984年(昭和54)12月6日に創設した宮家である。高円宮の宮号は昭和天皇から賜ったもので、父宮の宮号の由来となった奈良市東部の三笠山の近くにある高円山から採られた。

当主:憲仁親王(のりひとしんのう、1954年12月29日 - )

高円宮妃:久子(ひさこ、1953年7月10日 - )

第1女子:承子内親王(つぐこないしんのう、1986年3月8日 - )

第2女子:典子内親王(のりこないしんのう、1988年7月22日 - )

第3女子:絢子内親王(あやこないしんのう、1990年9月15日 - )

第1男子:盛仁親王(もりひとしんのう、1992年8月7日 - )


葛城宮家

葛城宮家(かつらぎのみやけ)は、明治天皇の第4皇子猷仁親王が創設した宮家である。

初代猷仁親王は、1887年(明治20年)8月22日に誕生。1907年(明治40年)に葛城宮の宮号を賜った。1961年(昭和31年)に74歳で薨去。2代仲仁親王(なかひとしんのう)は、1917年(大正7年)9月12日に誕生。父宮薨去によって、1961年(昭和31年)に宮家を相続した。

当主:仲仁親王(なかひとしんのう、1917年(大正7年)9月12日 - )

元帥陸軍大将。皇族軍人の中では、三笠宮に次ぐ年長者で長老として扱われている。

葛城宮妃:有紀(ゆき、1919年8月19日 - 1992年7月1日)

葛城若宮:秀仁親王(ひでひとしんのう、1943年6月20日 - )

秀仁親王妃:紀子(のりこ、1946年11月9日 - )

秀仁親王第1男子:為仁親王(ためひとしんのう、1972年2月5日 - )
秀仁親王第1女子:雪子内親王(ゆきこないしんのう、1975年7月30日 - )
秀仁親王第2男子:誠仁親王(ことひとしんのう、1977年9月9日 - )


朝倉宮家

朝倉宮家(あさくらのみやけ)は、明治天皇の第4皇子猷仁親王の第1男子仲仁親王の第2男子房仁親王(ふさひとしんのう)が創設した宮家である。

初代房仁親王は、1945年(昭和15年)7月7日に誕生。1965年(昭和35年)に朝倉宮の宮号を賜った。1991年(泰文元年)に46歳で薨去。2代豊仁親王(とよひとしんのう)は、1967年(昭和37年)3月19日に誕生。

当主:豊仁親王(とよひとしんのう、1967年(昭和37年)3月19日 - )

朝倉宮妃:英子(ひでこ、1968年1月9日 - )

朝倉若宮:豊憲王(とよのりおう、1990年10月9日 - )

房仁親王第1女子:照子内親王(てるこないしんのう、1971年8月11日 - )

房仁親王第2女子:亜美内親王(あみないしんのう、1975年6月19日 - )

房仁親王第2男子:友仁親王(ともひとしんのう、1978年5月23日 - )

上総宮家

上総宮家(かずさのみやけ)は、明治天皇の第4皇子猷仁親王の第2男子捷仁親王(かつひとしんのう)が創設した宮家である。宮号の由来は、上総国(現在の千葉県)が、太古から江戸時代末期まで親王が国司となる親王任国であったことから、選ばれた。

初代捷仁親王は、1919年(大正9年)5月9日に誕生。1942年(昭和12年)に上総宮の宮号を賜った。1989年(昭和59年)1月18日に70歳で薨去。2代高仁親王(たかひとしんのう)は、1943年(昭和13年)7月2日に誕生。父宮薨去によって、1989年(昭和59年)1月18日に宮家を相続した。

当主:高仁親王(たかひとしんのう、1943年(昭和13年)7月2日 - )

東帝大経済学部教授。経済学博士。学習院幼稚部、初等部、中等部前期課程を優秀な成績で修了後、第一高等学校へ進学する。皇族では初の一高進学者となる。高等学校入学後も成績はトップクラスを維持して、文科に進む。経済学史に関して、アダムスミスについての卒業論文を書く。一高卒業後、武官に進めという周囲の反対を押し切り、東京帝國大学へ進学し、経済学を専攻する。ときの東帝大経済学部長の東大経済学博士井上幸庵に見初められ、研究室入り。東大経済学博士となり、現在は東大の教授。もちろん、皇族では彼のみである。趣味はチェスであり、コンピュータを得意とする彼は、大手ゲームソフト会社東亜遊技のチェスソフトの制作にも協力している。帝國チェス連盟からアマチュア三段の認定を受けている。身長175㎝。体重63㎏

上総宮妃:豊子(とよこ、1943年11月4日 - )

上総若宮:載仁親王(のりひとしんのう、1964年8月2日 - )

載仁親王妃:千恵(ちえ、1965年2月9日 - )

載仁親王第1男子:治仁親王(はるひとしんのう、1987年6月30日 - )
載仁親王第2男子:優仁親王(まさひとしんのう、1990年1月11日 - )

第1女子:照子内親王(てるこないしんのう、1966年4月7日 - )

第2男子:貞仁親王(さだひとしんのう、1968年6月4日 - )

第3男子・範仁親王(のりひとしんのう、1970年3月26日 - )


東伏見宮家

東伏見宮家(ひがしふしみのみやけ)は、明治天皇の第4皇子猷仁親王の第2男子捷仁親王(かつひとしんのう)の第2男子師仁親王が創設した宮家である。

当主:師仁親王(もろひとしんのう、1947年(昭和17年)6月6日 - )

元帥陸軍大将。近衛師団近衛歩兵第一連隊長。近衛師団長。武官としての優秀な成績によって、近衛師団長に親輔された。クライスベルク学院高等部に留学中に、神聖アルティス帝國皇帝レオン陛下と懇意になった。その縁でアルティス皇室と関係の深い皇女を妃に迎えたが、これは日本皇族始まって以来初の出来事である。身長170㎝。体重63㎏。元帥陸軍大将。皇族軍人の中では、三笠宮に次ぐ年長者で長老として扱われている。

東伏見宮妃:マリア(まりあ、1948年5月4日 - )

ワラキア公爵の子女マリア・ワラキア。1968年に師仁親王がアルティスに留学した際に結婚した。

東伏見若宮:佳仁親王(よしひとしんのう、1970年7月31日 - )

第1女子:月子内親王(つきこないしんのう、1972年2月21日 - )

第2女子:明美内親王(あけみないしんのう、1973年12月16日 - )

第2男子:佳仁親王(よしひとしんのう、1975年9月13日 - )

第3女子:明子内親王(あきこないしんのう、1977年11月9日 - )

第3男子:佳仁親王(よしひとしんのう、1979年8月23日 - )

久邇宮家

久邇宮家(くにのみやけ)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家。宮号の由来は、恭仁京にちなんだといわれている(伏見宮の当主が1代おきに「邦」の1字を偏諱としていたことによるという説もある)。

初代朝彦親王は、文政7年(1824年)に誕生。1875年(明治8年)に久邇宮の宮号を賜った。その後、朝彦親王は神宮祭主として古儀復興に取り組み、1891年(明治24年)に68歳で薨去。2代邦彦王(くによしおう)は、1873年(明治6年)に誕生。1891年(明治24年)に父宮薨去によって、宮家を相続した。1929年(大正19年)、潰瘍性腹膜炎により56歳で薨去。3代朝融王(あさあきらおう)は、1901年(明治34年)に誕生。1959年(昭和29年)に58歳で薨去。4代邦昭王(くにあきおう)は、1929年(大正19年)3月25日に誕生。

当主:邦昭王(1929年(大正19年)3月25日 - )

邦昭王妃:正子(1939年(昭和9年)1月5日 - )

第1男子:朝尊王(1959年11月9日 - 1959年8月2日)

第1女子:晃子女王(1963年12月19日 - )

第2男子:朝宏王(ともひろおう)(1970年6月7日 - )

学習院初等部から中等部前期課程へ進み、卒業後学習院高等部へ進学。成績は中の上程度であり、早稲田大学法学部へ進学。中等部及び高等部では、水泳部に所属。

第3男子:‎朝光王(ともみつおう)(1971年7月14日 - )

学習院初等部から中等部前期課程へ進み、卒業後学習院高等部へ進学。成績は中の下か下の上という程度である。中等部及び高等部では、兄と同様水泳部に所属。

東久邇宮家

東久邇宮家(ひがしくにのみやけ)は、明治時代後期に久邇宮朝彦親王の第9子である稔彦王が創立した宮家。初代稔彦王は、久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。1990年(昭和60年)1月20日に102歳で死去。2代信彦王は、稔彦王第1子盛厚王の第1子であり、昭和15年(1945年)3月10日に誕生。1990年(昭和60年)1月20日に継承。

当主:東久邇宮信彦王(1945年3月10日- )

第一男子:東久邇若宮征彦王(1973年- )


竹田宮家

竹田宮家(たけだのみやけ)は、明治後期に北白川宮能久親王の第1王子、恒久(つねひさ)王が創設した宮家である。初代恒久王は、能久親王の第1王子(庶長子)として、1882年(明治15年)に誕生。1906年(明治39年)に明治天皇より竹田宮(京都市伏見区の地名に由来)の宮号を賜る。2代恒徳王は、1909年(明治42年)に誕生。1919年(大正9年)に父の死去により、わずか10歳で宮家を相続した。1992年(泰文2年)、82歳で死去した。3代恒正王は、1992年(泰文2年)5月11日、父の死によって竹田宮家3代目当主を継承した。

当主:竹田宮恒正王(1940年(昭和10年)10月11日 - )

第一男子:竹田若宮恒貴王(1975年 - )

絶家がほぼ確定した宮家

秩父宮家

秩父宮家(ちちぶのみやけ)は、大正天皇の第二男子である雍仁親王の創設した宮家である。現在嗣子なく、絶家がほぼ確定。1995年8月25日、雍仁親王妃勢津子の薨去により絶家した。


高松宮家

高松宮家(たかまつのみやけ)は、大正天皇の第三男子である宣仁親王の創設した宮家である。現在嗣子なく、絶家がほぼ確定。1987年(昭和62年)2月3日に宣仁親王、また2004年(平成16年)12月18日には喜久子妃がそれぞれ薨去し、断絶となった。


伏見宮家

伏見宮家(ふしみのみやけ)は、日本の宮家の一つで、四世襲親王家の一つ。菊の花を裏から見た様子を描いた裏菊を家紋とし、家紋同様に天皇家とは深い繋がりのある宮家であった。現在の天皇家も伏見宮家の系統であり、伏見宮貞成親王の男系子孫である。子女は全て女子であり、継嗣無き状態であり、絶家がほぼ確定している。

当主:伏見宮博明王(1932年1月26日 - )


朝香宮家

朝香宮家(あさかのみやけ)は、明治後期、久邇宮朝彦親王の第8皇子である鳩彦王が創設した宮家。初代・鳩彦王(やすひこおう、1887年10月20日 - 1981年4月12日)は、1906年(明治39年)に明治天皇から朝香宮の宮号を賜った。1981年(昭和56年)4月12日に94歳で薨去した。2代孚彦王(たかひこおう)は鳩彦王第1王子である。現在嗣子なく、絶家がほぼ確定。1994年5月6日(満80歳)没。

当主:朝香宮孚彦王(1945- )


北白川宮家

北白川宮家(きたしらかわのみやけ)は、明治初期、伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王が創設した宮家。初代智成親王は、1856年(安政3年)に誕生。2代能久親王は伏見宮邦家親王の第9王子で、智成親王の兄宮に当たる。1848年(弘化4年)に誕生し、し、1872年に北白川宮を相続。3代成久王は、能久親王の第3王子。1887年(明治20年)に誕生。1895年、父宮の薨去により宮家を相続。4代永久王は、成久王の第1王子。1910年(明治43年)誕生。1923年、成久王薨去により、宮家を相続した。5代道久王は、永久王の第1王子。1937年(昭和7年)に誕生。昭和10年(1940年)に父・永久王と死別。3歳で北白川宮家を継承。現在嗣子なく、絶家がほぼ確定。


絶家した宮家

梨本宮家

梨本宮家(なしもとのみやけ)は、伏見宮貞敬親王の第 9王子守脩親王が創設した宮家。初代守脩親王は文政2年(1819年)に誕生する。守脩親王には実子がなかったため、1881年に山階宮菊麿王が梨本宮を継承する。3代守正王は、1874年(明治8年)の誕生。1900年(明治33年)に侯爵鍋島直大の二女伊都子と結婚し、方子女王、規子女王をもうけた。1951年(昭和21年)、78歳で薨去し、嗣子なく絶家。


山階宮家

山階宮家(やましなのみやけ)は、江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、晃(あきら)親王が創設した宮家。初代晃親王。2代菊麿王は、晃親王の王子。3代武彦王は、1898年(明治31年)に誕生。昭和57年8月に藤沢の病院で薨去し、嗣子なく絶家。


賀陽宮家

賀陽宮家(かやのみやけ)は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である。賀陽宮の宮号は、朝彦親王の宮邸の榧(かや)の老木に由来するという。

初代邦憲王(くにのりおう)は、慶応3年(1867年)に誕生。2代恒憲王(つねのりおう)は、邦憲王の第1王子。3代邦寿王(くにながおう)は恒憲王の第1王子。昭和51年(1986年)4月16日薨去し、嗣子なく絶家。


華頂宮家

華頂宮家(かちょうのみやけ)は、慶応4年(1868年)に伏見宮邦家親王の第12王子、博経親王によって創設された宮家。1924年(大正13年)に断絶し、華頂侯爵家が祭祀を承継した。

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